大津地方裁判所 昭和46年(わ)360号 判決 1978年7月18日
被告人 反田小五郎
大九・五・一三生 医師
主文
被告人を罰金五万円に処する。
右罰金を完納することができないときは、金二、〇〇〇円を一日に換算した期間、被告人を労役場に留置する
訴訟費用は被告人の負担とする。
理由
(被告人の経歴、業務内容)
被告人は、昭和二五年長崎医科大学を卒業し、翌二六年医師国家試験に合格して医師免許を取得したあと、同大学病理学教室に助手として勤務したが、昭和二九年同大学整形外科教室の助手となつて以来主に整形外科医を専門とし、愛媛県立整肢寮護園、厚生年金湯河原整形外科病院などの勤務を経て昭和四三年二月から滋賀県八日市市五智町二五五番地所在の国立八日市病院に整形外科医長として勤務し、同整形外科の扱う患者の医療業務に従事していたものである。
(本件事故に至る経緯)
堀川勝美(昭和一八年八月六日生)は、小泉製麻株式会社滋賀工場に勤務当時の昭和四二年九月二〇日ころ交通事故に会い、国立八日市病院で診察を受けた結果、頸椎鞭打損傷と診断され、一ヵ月余同病院に入院し、頸椎牽引などの療法を受け退院したものの完治するに至らず、昭和四三年一二月一九日再度同病院に入院することとなつたが、このときより被告人が主治医として治療にあたるようになつた。被告人は堀川の症状を慢性的な鞭打症と診断し、頸部の牽引、鎮痛剤、筋弛緩剤等の投与のほかキシロカイン、カルボカインなどによる頸部星状神経節ブロツク療法を試みた結果、症状はかなり快方に向い、同人は昭和四四年三月一一日退院した。しかし同人は間もなく再び左上下肢のしびれ、冷感、疼痛を訴えるようになつたため、被告人は同年六月二三日同人を入院させたが、その際根本的な治療を痛感し、従前試みた療法のほかこの種の鞭打損傷に対して極めて効果的な療法とみなされていたキシロカインの頸部硬膜外注射を施術することを決意した。そこで被告人は、まず同月二七日堀川に対し、一パーセントキシロカイン一〇cc、生食水一〇cc、リンデロン二・五ミリグラムの混合注射液を、次いで同月三〇日には一パーセントキシロカイン一〇cc、生食水一〇ccの混合注射液を注入する頸部硬膜外注射を施術した。そして第三回目の同注射を同年七月一〇日午後二時ころ、同病院手術室において看護婦長東郷四支枝、看護婦大塚美代子、同樋口(旧姓辻村)トミ子の立会いのもとに行つたが、被告人自身八日市病院で頸部硬膜外注射を施術した患者は堀川が最初であり、右注射の介助をする看護婦も樋口を除く東郷及び大塚の両看護婦にとつてはこの日が始めての立会であつたところ、当日における右注射の施術経過は次のとおりであつた。すなわち、患者の堀川を上半身裸にして手術台の上で左側を下にして背中を丸くし、首と足を前屈して海老様の姿勢で横臥させ、樋口看護婦は患者の頭部を、大塚看護婦は患者の前面からその足と頭部を押えて患者の姿勢を固定し、東郷看護婦長は患者の背後で被告人の施術の介添をした。被告人は患者の第五、第六頸椎付近を消毒し、頸椎突起を手でさぐつて注射部位を見極め、注射管をつけないルンバール針にマンドリンを入れたままこの針を第五棘突起と第六棘突起の間に刺入し、針を椎板に当てて該部位の皮膚から椎板までの距離を目測したのち針を一旦皮下まで引き抜き、次いで空気を約一ないし二cc入れた注射筒を接続し、針先を硬膜外腔に向け、徐々に刺入し、注射筒内が陰圧になつて筒内の空気が吸い込まれるような感触を得るまでつまり針先が硬膜外腔に達するまで刺入し、筒内が陰圧になればその時点で針を止め血液、脊髄液の逆流が生じていないことを確認したうえ先の注射器を一パーセントキシロカイン一〇cc、生食水五cc、リンデロン二・五ミリグラムの混合注射液の入つた注射筒と交換して右注射液を約三分ほどかけて除ろに注入した。
(罪となるべき事実)
被告人は、国立八日市病院の医師として前記の業務に従事していたもので、昭和四四年七月一〇日午後二時ころ同病院手術室において、前記東郷ら三名の看護婦の介助を受け、入院患者堀川勝美に対し、キシロカイン液の頸部硬膜外注射を施術したものであるが、右注射施用は、その実施中或は実施直後に往々にして被施術者に呼吸及び心臓機能の停止を惹起する局所麻酔剤反応(以下局麻剤反応という)を発現させるおそれがあり、かつ右反応が発現した場合には、発現後約三分ないし五分のうちに被施術者の脳中枢神経系への血流を十分回復させるため、すみやかに人工呼吸及び心臓マツサージなどの回復蘇生の処置を講じて被施術者を無酸素状態に陥らせないような措置をとらなければ同神経系の壊死、軟化、崩壊による脳死を招来し、ついには被施術者をして死亡するに至らしめる危険が予測できていたのであるから、あらかじめ介助の看護婦に右注射施用に際し局麻剤反応が発現する場合があること、発現した場合における対処の方法を教示しておくとともに、右局麻剤反応が発現した場合に直ちに救急蘇生措置をとりうる用意を整えておき、局麻剤反応が発現した場合には介助看護婦に適切な指示を与え、協力して直ちに人工呼吸及び心臓マツサージなどの救急蘇生措置を講じて脳死に至る危険を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、介助看護婦に対する右教示も救急蘇生措置の事前の用意をなさないまゝ、堀川に対し右注射の施術に及び右注射施術直後、同人が局麻剤反応の症状を呈し、呼吸及び心臓機能の停止を惹起したのを認めながら混乱し、呼吸及び心臓機能の回復蘇生のための迅速、適切な処置を講じなかつた過失により、同人をして脳中枢神経系の壊死、軟化、崩壊を生ぜしめ、よつて、同月二四日午後零時四五分ころ、同病院において、同人を右脳死に伴なう両側性、出血性、化膿性肺炎によつて死亡するに至らしめたものである。
(証拠の標目)(略)
(判示認定の説明)
一 局麻剤注射(キシロカイン液の頸部硬膜外注射)と局麻剤反応について
1 被告人が本件注射に用いたキシロカインはアミド型の局方麻酔剤で、その作用は従来の局所麻酔剤に比し発現が迅速、確実であり、持続時間も長く、局所刺戟性もないので、注射用として浸潤麻酔、伝達麻酔により適切といわれている。
2 局麻剤の頸部硬膜外腔への注入、すなわち硬膜外麻酔は手術の麻酔や疼痛治療において常に行われているところで、注入局麻剤の濃度と量により、必要な限られた分節の知覚、運動、交感各神経の麻痺が得られるのでこれが手術の麻酔あるいは痛みの治療などに多く用いられている。
3 被告人が堀川に施した判示キシロカイン混合注射液の頸部硬膜外注射は、いわゆる頸椎鞭打損傷に対する効果的な治療法として、よく用いられるところである。
4 キシロカインは局麻剤であつて、キシロカインを頸部硬膜外注射をした場合、被施術患者に局麻剤反応と指称される異常反応が発現することがある。局麻剤反応の起る原因として次のような分類がされている。
(1)中毒反応・・・通常一時に大量の局麻剤が投与された場合や血管内にじかに注入された場合に起きる血中濃度上昇による反応で、けいれんを起し呼吸停止、心停止にいたり、脳中枢部の壊死をきたす。
(2)アレルギー反応・・・患者の特異体質などに由来するもので、症状は非常に迅速に発現し、重篤な状態となる。
(3)添加してある薬剤(多くはアドレナリン)による副作用・・・中毒反応の場合と似た症状があるが、一時的な頭痛、心悸亢進をきたす患者に心臓疾患などがある場合は別として生命に関係することは少ない。
(4)心因性反応・・・注射による過度の精神的興奮にもとづき、貧血症状を呈し、いきなりシヨツク現象を起して意識を失なう。
(5)麻酔による随伴症状・・・必ずしも局麻剤合併症とはいえないが、麻酔自体に由来し、血圧低下をきたしてシヨツク症状を呈する。
5 局麻剤反応の原因、その発現の症状は様々であつてこれを局麻剤投与前に予知することはきわめて困難であるが、シヨツク症状を呈した場合、最終的には呼吸停止、心臓停止が生ずるところまで進む。
二 局麻剤反応発現の際の医療措置
1 キシロカイン注射によつて異常反応の局麻剤反応が発現した際の重要な症状は呼吸麻痺並びに血圧低下それに続いて心停止といつた呼吸、循環の障害である。
2 このような事態に対する医療措置としては、(1)急速なる呼吸管理と(2)循環機能回復がその中核をなす。
(1)呼吸管理のための措置として、
イ 用手人工呼吸
ロ エアーバツク等使用又はマウス・ツウ・マウス(口対口)法による通気
ハ 気管内挿管による気道確保、酸素補給
ニ レスピレーターないし閉鎖循環麻酔器使用による継続的人工呼吸
(2)循環機能回復のための措置として、
イ 用手心臓マツサージ、必要あれば開胸心臓マツサージ
ロ 輸液(点滴静注)
が行われ、同時に
(3)状況に従つて各種薬剤(強心剤、昇圧剤、呼吸刺戟剤、抗けいれん剤ないし筋弛緩剤)の注射を行う。
3 右の救急蘇生措置は急速を要するのであつて、シヨツク症状により心停止の状態が三分ないし五分続くと脳皮質に血流がなくなり、酸素欠乏により脳細胞が不可逆的に壊死、軟化、崩壊されてしまい、たとえそのあとに心拍が再開しても脳死という脳中枢神経系に異常を来し、完全な蘇生ができなくなる。従つて右時間内に血液循環の再開がはかられなければならず、右時間内に血液循環を再開せしめえたならば、その救命率は八〇ないし九〇パーセントを示している。医療上俗にジヤスト・フオー・ミニツツといわれて四分以内に救急蘇生措置を施し、循環機能の回復をはかることが要諦とされている。
4 そこで右救急蘇生措置が円滑に行われるために必要な器具、薬剤等が施術の場所に近接して直ちに使用し得る状態で整備確保されていること、さらに右措置が適切に行われるよう施術に従事する医師、看護婦が局麻剤反応が生ずることを知識としても知つており、救急蘇生措置に習熟していることが重要である。
三 本件における局麻剤反応の発現と発現後の医療措置
被告人は、前記判示のとおり、東郷、大塚、樋口の三名の看護婦の介助を受けて堀川に対しキシロカイン混合液の頸部硬膜外注射を施術し、施術中はとくに異常はなく、注射を終つて注射針を抜き去るや、ほどなく同人は「息苦しい」と訴えた、同人の顔を見る位置にいた大塚看護婦がこれを聞いて「患者が息苦しいと言つています」と被告人に告げたので、被告人を始め東郷看護婦長らも手術台上に横臥している同人の傍らに駆け寄つたが、同人は見る間に顔面蒼白となり、目を閉じて意識不明に陥り、かつ全身脱力感で手術台から落ちかかる状態になつた。被告人は看護婦らとともに直ちに堀川を手術台に仰向けに寝かせたが、同人は口唇部にチアノーゼ症状を呈しており、大塚看護婦はとつさに堀川の脈をとるも脈搏が感じられなかつたので脈搏がないと叫び、樋口看護婦も即座に救急棚より血圧計を取り出して血圧を測定するも、血圧の上りが見られなかつたので測定不能の旨を被告人に伝えた。東郷看護婦長は自らの判断で酸素補給の必要を感じ、人工呼吸を施すために手術室に常備の麻酔器を傍らに取寄せ、蛇管をつなぎ蛇管にマスクをはめ、麻酔器によつて人工呼吸を行えるよう準備を始めた。その間に樋口看護婦は血圧上昇のためにカルニゲン注射の用意をし、被告人の指示のもとに同注射を堀川に施した。東郷看護婦長は麻酔器に蛇管、マスクをつなぎ終えるや、マスクを堀川の口にあてバツグを操作して酸素吸入を行つた。もつとも酸素ボンベから酸素が適量流れるように調節することは被告人が行つたものと窺われるが、もともと手術室に麻酔器は常備されていたものの、これですぐに人工呼吸を施せるような用意がなされていなかつたため、東郷婦長が麻酔器を取寄せ蛇管、マスクをつなぎ、人工呼吸の準備をして酸素を送るバツグ操作にとりかかるまでに一分位の時間を要している。このようにして東郷看護婦長はバツグを操作し酸素吸入による人工呼吸を始めたものの、堀川の自発呼吸が回復しないので、これ以上バツグ操作を続けても無意味であり、より効果的な人工呼吸をするのに気管内挿管による人工呼吸をする方がよく、この際気管内挿管に熟達している同病院外科医長の石川威医師に応援を求めるにしかずと自ら判断し、バツグの操作をやめ、石川医師に来援を請うため電話をしに手術室隣の中央材料室へ走つた。石川医師への電話連絡に先立ち、同看護婦長は手術室備付けのインターホーンで第二病棟の看護婦詰所へそこに居合わせる看護婦に応援方を求め、続いて石川医師に電話した。連絡を受けて直ちに看護婦詰所から木野みさ看護婦が手術室に駆けつけたが、その際被告人は堀川に心臓マツサージを行つていた。一方石川医師は東郷の電話で来援を求められた際、同病院の車庫付近に居たが、そこから手術室まで約二〇〇メートルの距離があり、同医師は連絡を受けて直ちに手術室に駆けつけ、木野看護婦に遅れて手術室に入つた。同医師が手術室に入つた際には被告人は堀川に対し麻酔器のバツクを操作していて酸素吸入をしながら人工呼吸をしていたが、石川医師は患者の症状がいわゆる麻酔シヨツクによるものと直感し、被告人に心臓マツサージの方にまわつてもらい、自らは直ちに気管内挿管の施術にとりかゝり、気管内挿管による人工呼吸を施すようにしてバツグ操作を担当した。その間同医師は看護婦をして静脈確保の措置をとらせ、次いで堀川の左右両足部の静脈を切開して点滴静注を施した。石川医師が手術室に来て、同医師のてきぱきした指示により居合せた看護婦の動きが活溌化したことが窺える。
以後、被告人は石川医師、看護婦らと分担して堀川に対し心臓マツサージ及び麻酔器を用いてバツグ操作による人工呼吸を継続した結果、しばらくして堀川に心拍が始まり、やがて心電図をとりうるようになつた。しかし堀川の自発呼吸及び意識は回復せず、同日深夜、同人は手術室から病室に移され、人口呼吸は麻酔器によるものからレスピレーターによるものへと切り替えられたが、同日の午後九時ころから激しい全身けいれんを起こすようになり、一時的に薬剤を投与してこれを止めてもしばらくすれば再びけいれんを繰返す状態が翌朝まで続いた。堀川の容態は好転のきざしがないまま推移し、同月一二日気管内挿管による人工呼吸から気管支切開による人工呼吸に切り替えられた。同月一三日ころ、国立京都病院麻酔科部長の石川奏医師が八日市病院長の頼みで容態を診察したが、すでに脳死といつてよい容態であつて回復の見込はないものと診断された。かくして堀川に対しその後施すべき処置も見当らないまま、同人は遂に同月二四日午後零時四五分ころ同病院において判示の死因で死亡するにいたつた。
以上のように被告人が堀川に対しキシロカイン混合液の頸部硬膜外注射を施した直後、同人に発現した症状はその症状の態様からみて麻酔シヨツクといわれる形態と認められるのであるが、その症状発現後の医療措置は、急速なる呼吸管理と循環機能回復をとつて脳死を防ぐことにあるところ、前記のとおり、症状発現後、被告人及び介助の看護婦らそれぞれが行動を起し、堀川に対し人工呼吸及び心臓マツサージを施してはいるものの、これら措置をとつた時間的経過をみると、これらの措置の開始が遅滞したものと認めざるをえない。すなわち堀川にシヨツク症状が発現して呼吸及び心停止が生じてから始めて東郷看護婦長が麻酔器に蛇管、マスクをつなぎ、バツグを操作し酸素吸入による人工呼吸を開始したのであるが、その間少くとも約一分余りの時間が経過し、さらに同看護婦長が一旦始めた麻酔器による人工呼吸のためのバツグ操作をやめ(同看護婦長がどの位の時間バツグ操作を続けたかも同看護婦長自身はつきりしない)、そのあと看護婦詰所に連絡して居合せる看護婦に応援を求め、次いで石川医師に電話連絡をして来援を要請するまでに一分近い時分を要したであらうし、さらに石川医師が連絡を受けてから手術室に駆けつけるまでに約二分余の時分が経過していたと認められ、結局、石川医師が来援した時には堀川にシヨツク症状が発現してから少くとも五分前後の時間が過ぎていたものと推認できる。そして東郷看護婦長が石川医師に来援を請う電話連絡をしようと、一旦始めた人工呼吸のためのバツグ操作をやめ、そのうち石川医師が手術室に駆けつけるまでの間、そこに居合わせた看護婦で右バツグ操作をした者はなく、ただその間被告人は堀川に対し心臓マツサージをし、また自ら人工呼吸のためにバツグ操作をしたことが認められるものの、人工呼吸と心臓マツサージの連係は十分ではなく、遅滞は免れなかつたものと推認されるのである。かくして石川医師が来援に駆けつけた後、同医師、被告人及び介助の看護婦らの分担による人工呼吸及び心臓マツサージが連係づけられて行われ、しばらくして堀川に心拍の再開がみられるにいたつたのであるが、結局三分ないし五分の時間内には血液循環の再開が十分にはかられるにはいたらなかつたものといわざるをえない。
四 本件における局麻剤反応の原因について
弁護人らは堀川に発現したシヨツクはアナフラキシーシヨツクあるいはアナフラキシー様シヨツクであつて、このようなシヨツク症状は具体的に予見することは困難で、右シヨツクによる死亡は不可抗力であると主張するしかしながらアナフラキシーシヨツクについてはそれを統一的に定義づけられるほどにすべて解明されているわけではないが、本来が免疫血清学的な抗原抗体反応であり、その発現の機序は、被施術者の体内に薬剤が投与されることによつて生体内に抗体が生じ、これがその後抗原となる同一の薬剤が投与される際に生体内の蛋白と結合して惹起される反応といわれている、アレルギー反応の一種に含める論者もある。ところでキシロカインはそれ自身蛋白を有していないので、本来アナフラキシーシヨツクを起す薬剤とは考えられていないし、局麻剤によつてアナフラキシーシヨツクと考えられる異常反応は全く発生していないといわれ(前掲証人松倉豊治の供述部分、鑑定人若杉文吉、同松倉豊治各作成の各鑑定書)、堀川に発現した前記シヨツク症状の態様からもこれをアナフラキシーシヨツクとみるのは麻酔専門医にとつても否定的に解されている(前掲証人石井奏の供述部分)。してみれば堀川に発現したシヨツク症状をアナフラキシーシヨツクあるいはアナフラキシー様シヨツクとみることは相当でなく、その原因をひとつに確定することはできないが、局麻剤の頸部硬膜外注射によつて生じた通常ありうる局麻剤反応とみるのが相当である。従つて弁護人らの前記主張は採ることができない。
五 被告人の過失について
前記のとおり、被告人は、堀川に対するキシロカイン混合液の頸部硬膜外注射の施術直後、同人が局麻剤反応によるシヨツク症状を呈し、同人に呼吸及び心停止が生じていることを知り、そのあと同人に対し人工呼吸及び心臓マツサージの救急蘇生措置に着手したことは認められるものの、その着手時間は、右救急蘇生措置を直ちに行える用意を欠いていたため遅滞したこと、また被告人がとつた右措置も、被告人の介助看護婦に対する適切な指示を欠いたため、間欠的、断片的で連係づけて行うことができず不十分であつたと認められるのである。すなわち手術室には麻酔器が常備されていたのであるが、これを用いる人工呼吸も患者のシヨツク症状発現後始めて蛇管、マスクを接合して用意したものであつて、麻酔器使用による人工呼吸の着手に遅れが生じているし、麻酔器使用による人工呼吸の用意に間がかかるとしても、その間に用手又はマウス・ツウ・マウス(口対口)法による人工呼吸が施されてよいわけであらうが、被告人自らはもとより、被告人から介助看護婦に指示して右の方法の人工呼吸は行われてもいない。ともかく東郷看護婦長が麻酔器を用いて人工呼吸を行い、バツグ操作を続けるも、石川医師に来援を求めるため手術室を離れバツグ操作をやめたのであるが、そのあとのバツグ操作を誰が代つてしたのか当初から立会いの大塚、樋口の両看護婦はもとより、応援に駆けつけた木野看護婦も共に石川医師が手術室に来援するまでの間、全くバツグ操作に従事したことがないことは同人ら自身明らかにしているところであつて、連携は十分でない。木野看護婦が東郷看護婦長の連絡を受けて応援のため手術室に来たのは石川医師の来援に先立つが、その際被告人は堀川に対し心臓マツサージを施していたと認められること前記のとおりであるけれども、その着手時点は明らかではなく、また被告人が右心臓マツサージを施用している間、人工呼吸の方はどのように処置されていたのか、全く不明、不確実のまま推移している。この間被告人は手術室にいる介助看護婦に対し、バツグ操作を指示するなど有効適切な指示を全然与えていない。石川医師が来援するまでの間、大塚、樋口、木野の三看護婦においてはどのように行動してよいのか手持無沙汰のままその辺に佇んでいる有様であり、東郷看護婦長も石川医師に電話連絡の後手術室に来たものの、専ら同医師が施術の気管内挿管のための準備に忙殺されバツグ操作に当ることはなかつた。石川医師が来援した際には被告人はバツグ操作をしていて人工呼吸に当つていたと認められるが、人工呼吸と心臓マツサージの両措置が連係づけられ有機的に実施され始めたのは石川医師の来援後のことに属し、すでに堀川に呼吸及び心停止が生じてから五分前後の時間が経過した後といわざるをえない。かくしてその後に堀川に心拍の再開が確認されるにいたるのであるけれども、人工呼吸及び心臓マツサージの救急蘇生措置を有機的に執行することの遅れによつて、結局三分ないし五分の時間内に血液循環の再開が十分になされず、循環不全を招いて脳死を防止できず、ひいて堀川をして死の転帰をみるにいたつたものといわなければならない。
なるほど局麻剤反応の発現を予知すること自体はきわめて困難であるものの、キシロカイン液注射によつて局麻剤反応が発現することは、被告人は医師として予見できていたところであるし、局麻剤反応が発現した場合呼吸停止及び心停止が生ずると、三分ないし五分の時間内に人工呼吸及び心臓マツサージなどの救急蘇生措置を行つて脳への血流再開をはからないときにはいわゆる脳死を防止しえないことは、これまた医師として当然知得し予見できていたことである。そしてこのような局麻剤反応が発現した場合の救急蘇生措置については、施術者の医師ひとりがこれを有機的に行うことはきわめて困難であり、介助看護婦の協力を得なければこれを十全に行いえないところであるから、被告人としては、キシロカイン液の頸部硬膜外注射に立会う介助看護婦に対し、該注射によつて局麻剤反応が生ずるおそれがあること、局麻剤反応が生じた場合の対処方法すなわち何よりもまず迅速に人工呼吸及び心臓マツサージなどの救急蘇生措置を行つて、呼吸及び循環管理をはかる必要性を教示しておくとともに、局麻剤反応が発現した場合に直ちに救急蘇生措置をとりうるための用意すなわち右措置に必要な器具、薬剤等を直ちに使用しうる状態に整備確保しておく、自らにおいて整備確保をしなくとも介助看護婦に指示して用意をさせておくことは、臨床の実際において局麻剤反応が発現した場合、医師たる被告人はもとより介助看護婦においても、混乱を生ずることなく、相協力して相応の整序立つた医療措置をとりうる所以であつて、医師として当然果さねばならない業務上の注意義務に属する事柄といわなければならない。また臨床に及んで局麻剤反応が発現した場合、救急蘇生措置を円滑に行うために医師として介助看護婦に適切な指示を与えて各自の行動を整序し、自らもまた適切な救急蘇生措置の手技に習熟しておくことも右注意義務に含まれる事柄である。
ところで本件にあつては、被告人自身、八日市病院でキシロカイン液の頸部硬膜外注射を施術する患者は堀川が最初であり、右注射を介助する看護婦も樋口を除く東郷、大塚の両看護婦にとつては当日が始めての立会いであつたところ、東郷ら三名の介助看護婦は、キシロカイン注射による局麻剤反応の発現自体については知識はないのに、被告人からは何の教示も与えられず、事前の打合せとてなく、直ちに救急蘇生措置をとりうるための用意も整備されないまま、被告人が堀川に施術する注射の介助に立会つたものであつて、はたせるかな東郷ら三名の介助看護婦にとつては、注射直後堀川に発現した前記のシヨツク症状に遭遇する経験も全くこれが最初であつてみれば、気が動転し、一方適切な被告人の指示が欠けていたこともあつて、混乱してしまい、被告人に協力して適切迅速な救急蘇生措置に対処できなかつたのは無理からぬことであつたといわなければならない。かつ被告人自身も堀川に局麻剤反応が発現するや、事後の救急蘇生措置について混乱し、適切迅速な処置をとりえなかつたもので、被告人には医師として前記業務上の注意義務の懈怠は否めず、過失があるものというべきである。
六 本位的訴因を排斥した理由
以上の本件判示認定は、大要検察官の予備的訴因に従つたものであるが、なおその本位的訴因の要旨は、「被告人は堀川に対し前記疾病に対する治療としてキシロカイン液の頸部硬膜外注射を施術しようとしたのであるが、右注射施用は注射実施中或はその直後において、被施術者に呼吸及び心臓機能の停止を惹起するなどの局麻剤反応を発現させ、ひいては脳中枢神経系の壊死、軟化、崩壊による脳死を招来し、ついには被施術者をして死亡するに至らしめる危険が十分予測されたのであるから、いやしくも医師として自らこの種局麻剤反応に対する回復蘇生のための適切な処置をなし得る十分な知識、経験を有しないときは、右注射を避止するか或は右回復、蘇生手技に豊富な知識、経験を有する医師の助力を求め、右反応発現の際には直ちに適切な回復蘇生の処置を講じ、もつて被施術者の身体、生命の安全を確保すべき業務上の注意義務があつたにもかかわらず、これを怠り自ら局麻剤反応に対処する十分な知識、経験を有しないのに、あらかじめ右知識、経験の豊富な医師の助力を求めることなく、漫然、看護婦三名を介助せしめたのみで前記頸部硬膜外注射を施術したため、注射直後堀川が局麻剤反応の症状を呈し呼吸及び心臓機能の停止を惹起したのを認めて周章狼狽し、直ちにこれが回復蘇生のための的確な措置を講じ得ず、間もなく同所において、同女をして脳中枢神経系を壊死、軟化、崩壊するに至らしめ、さらにこれに伴なう両側性、出血性、化膿性肺炎を併発させ、よつて、同月二四日午後零時四五分、同女をして同病院において死亡させたものである。」というものである。
被告人の医師としての経歴は前記のとおりであるが、さらに被告人は、厚生年金湯河原整形外科病院に勤務していた昭和三八年ころより麻酔法の修得を志し、勤務の傍ら約二年間にわたつて週一回づつの割合で東京虎の門病院麻酔科に通い、次いで八日市病院に転勤後も昭和四三年一一月ころから本件事故発生に至るまでの間、週一回の割合で大阪医科大学麻酔科へ出向いて麻酔科全般についての知識、技術の修得に努め、その実施例も専門医のもとに腰部硬膜外注射に関しては東京虎の門病院においては約一〇〇例、大阪医科大学においては約五〇例を、頸部硬膜外注射についても同大学において二例を数えるに至つていたが、この間麻酔シヨツクにもとずく緊急蘇生に関しての実施例はなかつたことが認められ、被告人は昭和三八年ころより麻酔法の修得を志し、整形外科医として病院に勤務する傍ら麻酔学の専門医に師事して研究を重ねた結果、既に本件犯行当時においては麻酔学全般に関して相当程度の知識、技術を修得していたと認めることができる。なるほど被告人は局麻剤反応に対する経験例は有していないが、元来局麻剤の硬膜外注射の施術に際し、局麻剤反応の発生率は極めて少なく、麻酔法の修得を志す者も局麻剤反応に対する救急蘇生手技に関しては指導医からその理論的説明を受け、蘇生手技の型を練習する程度にとどまり、臨床例に遭遇する者はごく稀である。してみれば被告人は、本件犯行当時局麻剤反応に対する相応の知識を有していたし、救急蘇生措置についても、実際の場に及んでこれを的確になしえたかどうかはともかく、医師として当然に修得していた事柄である。従つて局麻剤反応に対する知識を有し、救急蘇生措置に対する心得もある被告人としては自らひとりでキシロカイン液の頸部硬膜外注射をなしえないわけのものではない。被告人に局麻剤反応に対する回復蘇生のための適切な措置をなしうる十分な知識経験がないと断ずることはできないのであつて、注射を避止するか、回復蘇生手技に豊富な知識経験を有する医師の助力を求めてでないと注射をしてはならないといつた注意義務を被告人に課すことは失当といわなければならない。それゆえ前記本位的訴因は排斥を免れず、予備的訴因にもとづき判示の認定をしたものである。
(法令の適用)
被告人の判示所為は、行為時においては刑法二一一条前段、昭和四七年法律第六一号による改正前の罰金等臨時措置法三条一項一号に、裁判時においては刑法二一一条前段、右改正後の罰金等臨時措置法三条一項一号に該当するが、犯罪後の法律により刑の変更があつたときにあたるから刑法六条、一〇条により軽い行為時法の刑によることとし、所定刑中罰金刑を選択し、その所定金額の範囲内で被告人を罰金五万円に処し、右罰金を完納することができないときは、同法一八条により金二、〇〇〇円を一日に換算した期間、被告人を労役場に留置することとし、訴訟費用は刑事訴訟法一八一条一項本文により被告人に負担させることとする。
よつて主文のとおり判決する。
(裁判官 坂詰幸次郎 横田勝年 岸本一男)